新宿区における地域活性化の取り組み
2003年から5年は、私や新宿区民にとって大きな影響を与えた年でした。
2003年は花粉症が大流行しました。2005年は、区が「歌舞伎町再生運動」を始めた年です。私にとっては、当初別々な課題でしたが、取り組んでいくうちに、次第に統一していきました。この二つのテーマの取り組みを振り返り、地域の活性化について考えてみます。
2004年に入り、八王子の山間地域、恩方地区で炭焼きをしていた友人から「花粉症の発症は奥多摩の杉の悲鳴だ。植えたきりほったらかしている。奥多摩の山を見に来い」と言われ、奥多摩の山を見に行きました。まさに、奥多摩の山は悲鳴をあげていました。
 1950年代、それまで主な燃料だった薪や炭が化石燃料にとって代わられ、それまで主流だった雑木(落葉樹)から、建築材としての活用を目的に、杉(常葉樹)が全国的に植えられました。
 成長した30年後、建築材として安い外国産材木が入り、国内の杉は放置され、山は荒れ、杉は花粉を飛散させたのでした。
 人工林として人間の都合で生態系を変えられた山は、その後間伐や枝打ちなども放置されたままになり、荒れ果ててしまったのです。
 私は八王子の山間地域、恩方地区で、 私たち都心に住む者は、「上流の山や川の恩恵を受けて生きている」ことに気づきました。そして、その恩恵を受けている新宿区民が、奥多摩の山の再生に取り組まなければならないと思いました。この思いは、新宿区内での緑化の推進活動にもつながりました。●檜原村での植樹 
 このような事から、「どんぐり銀行」という名称で、新宿区民や友人に趣旨を訴え、ドングリの苗木、1本1.000円で名札を付けて植えることを呼びかけました。予想を超える反響でした。
 2004年6月、八王子市恩方に30名の方々と300本のどんぐりの苗木を植えに行きました。
 2005年からは、東京多摩地区でたった一つの村、檜原村の最も奥地、北秋川の源流で65歳以上の方々が5割を超える「水源の里」(限界集落)藤倉地区で植樹活動を始めました。多摩の山は険しく苦労しながら、植えては枯れ、植えては枯れで、植樹活動というのは甘いものではないと痛感しました。
 このような取り組みを通じて、私たちは、近くに宿泊施設の必要を痛感し、「花・みどり・水ネット」を立ち上げ、村に要望書を提出しました。
 今年(2010年)4月、25年前に廃校になった旧藤倉小学校を村から借り受け、宿泊施設「いこいの森・ふじくら」として活用を始めました。(右写真)
 ここを拠点に「上流は下流を思い、下流は上流に感謝する」活動の第二段階に入ります。
 この活動を進めながら、区民が水の恩恵に預かる多摩川の源流の山を「新宿区民の森」として管理していくことも区に提唱しました。これは、下流の私たちが上流の「水源の里」に感謝し、水源を守るとともに、CO2削減に寄与するということです。
 2009年6月、利根川の源流の群馬県沼田市と、2010年3月には、多摩川の支流で秋川の源流のあきる野市と協定を結び「新宿区民の森」をつくりました。
 2010年6月、沼田市の山で植樹、あきる野市は2011年3月に植樹予定です。
●みどりのカーテン運動
 みどりのカーテンとは、ベランダや窓際にゴーヤーなどのつる性の植物を植え、葉の蒸水作用と日陰により室温を下げ、電気を使わずCO2を削減、更に植物によるCO2吸収をめざす運動です。板橋区の小学校からはじまり、今では全国的な運動です。
 私たちはいち早く取り組みを初め、これも区へ提唱しました。
 2007年より、区が1500戸3000株の苗を希望者に配り、区内全域、全小中学校で取り組んでいます。
●畑と田んぼのネットワーク作り
 都心区は、地価が高く田んぼや畑はありません。しかし、屋上や、廃校舎などに空きスペースがあります。2003年、区は区役所屋上に緑化推進の為、屋上庭園を造りました。
 この頃、早稲田大学の農業経済学の教授を会長とし「NPOいちへいべ自然農園の会」が、社会人講座(エクステンション講座)を開催し,「1㎡あれば畑ができる」と、都市での農園運動を推進していました。このモデルの畑を区役所屋上に作りたいと言う事になり、区に相談しました。
 2006年、新宿区役所屋上庭園の一角を「いちへいべ自然農園の会」が借り受け、野菜作りを始めました。(左写真)
 区職員の協力のもと、現在も野菜作りを続けています。          
 この畑の維持が大変でしたが、講座を修了した新宿区民を中心に区役所屋上を拠点に現在、四谷ひろばの畑、新宿中央公園の田んぼ、中学校跡地の田んぼなどのネットワーク作りを目指しています。
●内藤とうがらしの復活
 豊臣秀吉から、江戸への国代えを命じられた徳川家康は部下の内藤清成を先遣隊として江戸行きを命じます。
 命を受けた清成は、1590年、鉄砲百人組と服部半蔵と共に江戸に入り、現在の新宿御苑付近に陣地を構えました。その時、三河から持参したのがとうがらしとカボチャでした。江戸初期には、現在の新宿御苑周辺は秋には一面真っ赤になったと言われています。
 このとうがらしを江戸東京野菜のシンボルとして復活させようと「スローフード江戸東京」の皆さんがここ数年取り組んできました。
 2009年より、江戸東京野菜・内藤とうがらしの復活に向け、私たちも栽培活動を始めています。
 今年5月伊勢丹が600株の苗を配布。内藤とうがらしを使った和菓子も販売。四谷地区協議会や私たちのグループなど区内およそ1000株育てています。
 9月下旬から新宿区役所玄関で展示しています。
歴史と文化の薫るまちへ
下落合・旧E邸の保存運動
「下落合みどりトラスト基金」の活動(平成16年10月より)
 平成16年(2004年)11月、環境建設委員長だった小野紀美子区議から、下落合4丁目にある由緒ある建物が壊されそうだ。なんとか保存したい」と相談され、私はすぐ現地に伺いました。
元の所有者のEさんとお会いし、いきさつなどお聞きし、建物と庭を拝見し、その素晴らしさに、なんとしても残したいと思いました。
この建物は敷地の中を見たのは初めてでしたが、落合に住んでいた頃、散歩の度に、その門構えの素晴らしさに「中はどんなだろう」と興味深かった建物だったのです。
 しかしその門を見て唖然としました。丁度その日に、建築を知らせる標識(お知らせ看板)が掲げられたのでした。570坪の旧前田邸の建物と日本庭園を取り壊し、地上3階、地下1階、30戸の重層長屋を建てるというものでした。
計画はかなり進んでいたのです。
 建築申請はまだ出ていないことなど確認し、近隣の方々に集まって頂き相談。議会への陳情書名集めを始めました。
 私は11月26日の本会議で「旧前田邸は文化財の可能性がある。すぐ調査し、保護すべき」旨質問。環境建設委員会は、29日に現地視察、30日には「十分な説明がなされるまで工事を行わないよう区は指導すべき」旨の陳情を採択。12月3日には区が委託した学者が調査。住民説明会での住民の質問は鋭く多彩で盛り上がり大変素早い立ち上がりだったのですが、長く困難な戦いになりました。平成21年5月現在、最高裁で争われ、工事は止まっています。  この活動の経過については「下落合みどりトラスト基金」のホームページに詳しく載せられていますので参照ください。
初めて取り組んだ「トラスト基金」運動
 この頃の保存運動の大半は、問題が起きた後、区に対し公園用地として買って欲しいという運動でした。しかしバブル崩壊後、区は公園用地を買う事はありませんでした。私たちが踏み込んだのは、篤志家の応援を基に自分たちでお金を集めるという事でした。
 平成17年2月6日「下落合みどりトラスト基金」設立総会を開催、篤志家の2億円を基に2億5千万円を目標として寄付を呼びかけ、結果全国から2億3500万円余が集まりました。このような住民のパワーに区は、5億円余を予算化、業者と買い取りの交渉をしました。 しかし業者は10億円以上を譲らず、平成19年7月工事は強行されました。
専門家は一様に保存を要望
 東京大学 藤森輝信 慶応大学 石川幹子 長岡造形大学大学院 上山良子
 教授を始め大勢の専門家の先生に現地を調査して頂いた結果「都内でも類を見ない貴重なもので、文化財として後世に残すべき」と一様に評価、要望書を区長に提出していただきました。
建築審査会への不服請求、地裁への提訴。高裁での逆転勝訴
 区がおろした東京都建築安全条例4条の特例認定の違法性をめぐっての争いにもなりました。区の建築審査会で棄却、地裁でも棄却、しかし20年5月東京高裁は「安全性に問題がある」として逆転して、建築確認の取り消しを命じました。今最高裁での審理が行われています。
「みどりの基金」設立
 この運動により、区は民間緑地を買い取り保存すべく平成18年度、「みどりの基金」を設置、10億円を積み立てました。20年度には更に10億円増やし、20億円としました。区のみどりを守る施策についても大変教訓の大きい運動です。
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近代美術の巨星 中村彜のアトリエ保存活動 平成18年より
 下落合2丁目に「エロシェンコ氏の像」で有名な画家、中村彜のアトリエが今も残っています。(右画像:国立近代美術館所蔵「エロシェンコ氏の像」 左下画像:現存する下落合4丁目のアトリエ 平成18年・北沢友宏氏撮影)
 平成18年に入り、旧前田邸の保存活動を一緒に担っていたKさんから、「旧中村彜アトリエの現在の所有者が保存のために区に買い取りを望んでいる。会って話を聞いてほしい」旨の相談を受けました。
 お話を伺うと、亡くなられたご主人の父、鈴木誠氏は岐阜県出身の画家で当時落合の佐伯祐三氏宅に住んでいたが、大正20年頃に中村彜宅を買って移り住んだこと。住まいは増築したものの、アトリエはそのまま保存に努めたこと。夫正治氏も、父の思いを継ぎアトリエ保存に努めたこと。新宿区には昭和40年代から何度か保存を要請したが、そのつど断られた。ご主人が亡くなった今、痛みがひどいので最終決断をせざるを得ないことなど、お話しされました。
 Kさんは地元のお知り合いの方に呼びかけ、私は区やゆかりの中村屋の担当者に働きかけをしました。。中村屋は相馬愛蔵・黒光夫妻の好意で、彜が一時裏に住み制作活動をするなど関係は極めて深く、この頃も中村彜賞の授賞式会場を提供していました。中村屋が買って保存することをお願いしたのですが、それは断られました。区に対しても求めましたが「彜について研究する」という返答どまりでした。
3月に入り地元の有志で「中村彜アトリエ保存会」が設立され、運動は急速に盛り上がっていきました。
 北沢友宏氏のブログに大変詳しく彜の研究が載せられています。
 12月に入って、私が所属する「東京飯田橋ライオンズクラブ」の先輩から12月24日、彜の命日に生誕の地、水戸で「彜会」が催されるという知らせを聞き、馳せ参じたところ、彜のお墓がある祇園寺に40名程の方々が集まられていました。最後の弟子、鈴木良三氏のお嬢様や遠く大島から来られた方々など彜の死後、途切れることなく命日に集まっていたのでした。しかしこれが最後の彜会という事でした。
梶山公平会長を始め皆さん、下落合にアトリエが現存することに驚くと同時に大きな期待を寄せられました。私は、バトンをタッチされたような気持になりました。
 平成19年3月、水戸の近代美術館の中で梶山公平さんとお会いした際、梶山さんは「最後に残っていた彜のレリーフをあなたにあげる」と言い、「保存はかなわないかもしれないが、頑張ってほしい。もしアトリエが残ったら資料は全部寄付する」と言われました。7月12日に、彜の生誕の日に再会を約束してお別れしたが、6月21日、急逝されてしまいました。、
 その後、新宿区は保存の意向を固めてアトリエ所有者とお話し合いを進めているが、家族の将来設計との理由で、平成21年5月現在、アトリエ保存は実現していない。
 近くにある「佐伯祐三公園」はリニューアルし、アトリエも公開することになりました。一刻も早い保存の実現を今も目指しています。
   
祇園寺の彜のお墓
梶山さんから頂いた彜の最後のレリーフ 水戸市の茨城県近代美術館の敷地にある中村彜アトリエのレプリカ。鈴木正治氏が設計。
昭和9年・西條八十作、幻の「新宿音頭」復活
 平成15年、新宿2丁目で大江山を営む永井京子さんから「疎開中に姉から教わり、亡き姉の形見としてずっと口ずさんでいたのだが、私がいなくなったら、この歌も消えてしまうんだろうね。」と、寂しそうに相談を受け、聞けば昭和初期の新宿を思わせる大変良い歌でした。
 私は、友人の「東京の民謡を歌い継ぐ会」会長でコロムビアの民謡歌手村松直則さんに連絡下所、村松さんは、すぐに永井さんを訪ね、カセットに収録。
 平成16年秋、「作詩、作曲不詳」のまま会で歌ってくれました。この歌が評判を呼び、
 平成17年10月に、西條八十、中山晋が昭和9年に作った歌であることが分かりました。しかし、半信半疑で、中山晋平記念館に問い合わせても記録に残っていません。ある時ご子息の西條八束さんと連絡が付き、すべて古賀政男音楽博物館に保存を委ねたことを教えて頂きました。古賀政男博物館の学芸員の方が一生懸命探し、たった一枚の「新宿音頭」のレコードを見つけてくれました。
学芸員の方は親切にそのレコードを聞かせてくれました。永井さんの記憶通りでした。感動で震えが止まらないまま永井さんに電話したのを鮮明に覚えています。
 今では、花園神社をはじめ、日比谷公園「丸の内音頭大会」などの夏祭りで歌い踊られています。平成21年4月にはCDも発売されました(右画像:平成21年4月「東京の民謡を歌い継ぐ会」20周年記念で発売されたCD「蘇る昭和初期の唄」に新宿音頭が収録されている)。
 西條八十は明治25年(1892年)1月牛込区払方町で生まれ、早稲田大学に学び、一時中村屋の相馬俊子の家庭教師をするなど、新宿に大変ゆかりの深い方です。
 昭和初期、新民謡がブームになり、八十は全国各地から依頼を受け中山晋平とともに「音頭」を作ってまわりました。
そのひとつ「東京音頭」が、昭和8年大ヒットしました。東京ばかりか日本中に櫓が建ち、老いも若きも浴衣姿で毎晩踊りの輪ができました。当時 住んでいた柏木でも裏の空き地で毎晩10時まで踊られ、「うるさい」とも言えず箱根に避難したそうです。
 この爆発的ヒットに地元の商店会、「新宿発展会」の皆さんが、柏木の八十に「地元の音頭も作って欲しい」と頼み、作られたのが「新宿音頭」でした。
 昭和9年5月1日より7日まで太宗寺横の空き地で「第1回新宿祭」が開催され、勝太郎によって唄われ、レコードも出されました。
 しかし、翌10年には開催されず、それとともに「新宿音頭」も消えていきました。
 新宿駅東口の大通りに出たところに西條八十の「新宿模様」の歌碑があります。
 新宿に生まれ、永く新宿に住み、新宿を愛した西條八十氏を、新宿区民の気億にもう一度よみがえらせたいと願うのです。
 
東京新聞 夕刊 H17年10月1日  
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歌舞伎町を音楽と農山村交流のまちへ
●歌舞伎町ルネッサンス推進協議会(2005年~)
 アジア最大の歓楽街「歌舞伎町」は新宿区にあります。2000年代に入り、暴力団の抗争や、雑居ビルの火災により尊い命が奪われたことを機に、国・都・区あげて歌舞伎町の再生を目指すことになりました。2005年新宿区長が会長になり、「歌舞伎町ルネッサンス推進協議会」が結成されました。このような気運の中で、1970年代に歌舞伎町でソロのミュージシャンとして演奏していた有志(団塊世代)が、歌舞伎町を生の音楽の町にしようと立ちあがりました。70年代、歌舞伎町は「歌声喫茶」、「ジャズ喫茶」など生の音楽の町でした。
●歌舞伎町ライブ・ミュージック・プロムナード(LMP)設立(2005年~)
 「生の音楽を発信するまちへ」の呼びかけに、ビルのオーナーや飲食店も加わり3K「怖い・暗い・汚い」まちから、3A「明るい・安心・安全」なまちにしようという気運が高まりました。
 団塊世代のアマチュアバンドや、ミュージシャンへボランテア出演を呼びかけた所、大勢応えてくれました。
2005年12月、歌舞伎町にある閉鎖したクラブの空き店舗とシネシティ広場(旧コマ劇場前の広場)を中心に、ストリートライブも併せて「クリスマスの夕べ」演奏会を催しました。
 このイベントは大変好評で、年2回、夏・冬に空き店舗で、区役所玄関ではクラシックの演奏を続けてきました。(右写真)
 今年(2010年)7月5日は、大久保公園シアターパークにて「クラシックの夕べ」、7月18日には同会場で、「ポップスの夕べ」を開催しました。また、2010年4月からは、毎週金曜日夕に「歌舞伎町音楽祭」を開催し、定期的な音楽活動を通して「音楽のまち 歌舞伎町」を盛上げています。
 また、応援してくれたビルオーナーの有志が中心となり2007年冬から、区役所通りの街路樹にイルミネーションを(左写真)、旧コマ劇場に通じる通りは商店街の皆さんがハンギングバスケットを管理しています。これらの活動も区民や来街者から大変好評であり、まちのイメージアップにつながっています。
●農山村交流と歌舞伎町再生の合流
 国産の食材を使い食料自給率を向上させようという飲食店の会に「緑提灯」があります。
 2007年12月に中国の冷凍ギョーザ事件が発生。食の安全と日本の食料自給率が40%を割っていることが社会問題になりました。これを機に、2008年1月、私が営むやきとり屋も「緑提灯」に入会しました。
 私はこの「緑提灯」の活動の中で、2009年5月、全国の会員2000店達成記念企画として、映画会の上映を発案しました。
 2009年9月23日、今まで活動してきた様々なグループが協力し、四谷の廃校舎「四谷ひろば」を活用して、「ムービー&ワイワイ広場」を開催しました。
 新潟の美しい農村を舞台に、人間の生き方を問う「降りてゆく生き方」(武田鉄矢主演)の上映と、緑提灯会員の茨城県つくば市の生産者、檜原村や栃木県茂木町、新潟県村上市のNPO産直販売、東洋大学大学院官民専攻の院生による茶会に、区民を中心に1.000名を超える参加者を得ました。
●歌舞伎町を音楽と農山村交流のまちに<2010年7月18日>
 四谷ひろばで開催した「産地直送販売」の成功を受け、会場を歌舞伎町の「シネシティ広場」に移し再度の開催を目指しました。
 2010年5月頃から、準備に入り、7月18日(日)に開催しました(下写真)。
 
 「歌舞伎町・農山村ふれあいキャンペーン」と称したこの取り組みには、2009年9月から新宿区役所地下レストランで、毎月開催してきた「地域活性意見交換会」の仲間が新たに応援団に加わりました。
 この農山村とのふれあいのイベントは、地方の生産者と都会の消費者を結びつけ、相互理解をはかりながら、地方農産物の生産・消費の促進と都会の賑わいづくりを目的としており、これまでになかった新たな取り組みです。
 歌舞伎町LMPは、7月5日(月)シアターパークにて「クラシックの夕べ」(下左写真)7月18日には産直を応援しつつも、午後4時より大久保公園シアターパークにおいて「ポップスの夕べ」(下右写真)を開催しました。こうして二つのグループが、歌舞伎町を舞台に一緒になりました。
 
 このイベントは準備時間が短かったにもかかわらず、多くの賛同者を集め大成功しました。
 この成功を受け「第二回農山村とのふれあいキャンペーン」が10月31日(日)に開催することとなりました。現在、この二つの取り組みは、これまでの経験を踏まえながら、お互いに協力し合い、その準備を進めているところです。
振り返って―地域活性化の観点から
 私たちの活動は、都市に住む者がいかに農山村からの恩恵に浴しているかと気づいた所から始まり、いわば水源の里、限界集落の再生の取り組みは、都市に住む者の責務のような思いで取り組みました。そのような思いに共鳴して一緒に活動してくれた方々は数多くいます。
 活動は、特定の活動を目的にしたNPOのような組織の活動というより、テーマ毎に呼びかけ、その都度参加者と共に行動してきました。その中で次第に、中核を担う人、常に協力してくれる人がわずかですが定まってきました。しかし、別に仕事を持ちながらの活動は、時間的な制約があります。また、6~7年の月日は、長いもので、最初に行動を共にした方々は、亡くなったり、体力的に山に登れなくなった方も多くいます。ミュージシャンも、かなりの入れ替わりがありました。
 再構築の時期なのかも知れません。
都心における地域活性化について
●住民の共同体の再構築の見地から
①都心区は、積極的に農山村との連携を
 新宿区は、商業・業務地や歓楽街が集積し、一見活気にあふれているようでも、実態はコミュニテイの崩壊、高齢化、格差の拡大などに直面しています。大規模団地は都市型限界集落と言われていますし、また食料自給率はゼロパーセントです。水や空気は他自治体からの恩恵を受けています。災害時などの真の危機は都心部にあると言えます。
 一方新宿区は、狭い面積に31万人が暮らし、更に新宿駅の一日の乗降客が350万人と言われる一大消費地です。農産物の消費地としては適地です。
 新宿区民と生産者が協力しあえば、区民の安全な食を確保し、豊かな自然と身近に触れる機会も多くなります。
 都心区自治体は、普段から農山村との連携を深めることが重要と考えます。
 
②花や野菜の栽培は、人びとを結ぶ。
 大規模団地の空き地に区民花壇を作り共同で管理している団地があります。1人暮らしの高齢者が毎日水やりなどで顔を合わせ、皆仲良くなりました。東京農大の進士先生は、これを「園芸福祉」と名付けています。
 四谷地区は、PTA・地区協議会など地域をあげて内藤とうがらしを栽培しています。とうがらしを使った料理教室を開くなど、地域のふれあいが活発になりました。
 みどりのカーテンは料理教室・栽培日記の展示会・表彰など近所での共通の話題で盛り上がっています。
●都心における地域活性化―商業・観光振興の見地から
 中央区の「銀座ミツバチプロジェクト」は、大変活発な活動をしています。ミツバチの養育から屋上ビー鉢(花ダン)、銀座産のハチミツを使ったスィ-ツ、酒造会社のビル屋上での稲作、銀座里山づくり、そして各地の農山村との協力などへと拡がっています。
 企業がNPOと連携し自社ビルを利用して、緑や畑を作り子どもたちに開放する試みは、環境問題に取り組むCSR(企業の社会的責任)として注目する実践です。
 「ミツバチ」をシンボルに、環境に優しい町としてのイメージアップに成功しています。
 私は、新宿で、歌舞伎町を中心に、「野菜畑ネットワーク」を目指しています。区役所は歌舞伎町にありますし、既に何年も、屋上で野菜を作っています。
 しかも伊勢丹が江戸東京野菜フェアとして5月に「内藤とうがらし」の苗を配布し、新宿御苑周辺の和菓子店がこの期間「内藤とうがらし」を利用した和菓子を販売しました。(右写真)
 9月下旬から新宿区役所玄関に、「内藤とうがらし」の鉢が展示されています。区役所、地元デパート、江戸東京野菜を推奨するレストランなどの連携により、「新宿ブランド」としての発展を目指していますが、これからです。
今後の課題
①前述したように、当初の活動は、環境問題や、ヒートアイランド対策が中心で、地域活性化という視点は明確ではありませんでした。地域活性化システム論の視点からは、その取り組みにより、その地域の人々が、いかに活き活きとなったか、消費や人口が増えたかという指標で振り返ってみなければならないと思っています。それは、これからです。
 各地の取り組みを学ぶと、成果が出るまでに10年くらいかかっています。その意味で、新宿の取り組みはこれからという所です。
②人材の育成について
 歌舞伎町LMPの活動は、プロダクション、NPOの演奏団体、ビルや飲食店オーナー等の協力によって成り立っています。
 「農山村とのふれあいキャンペーン」は、地元・事業者や関係行政機関等で構成される「歌舞伎町タウン・マネージメント」(通称:歌舞伎町TMO)や区の応援により、継続的な開催が可能になりました。
 しかし、推進するにあたり、このイベントを担う人材づくりが、今後の課題となっています。
 NPO「いちへいべ自然農園の会」は、会長が早稲田大学の副学長で、ゼミ生が大隈庭園の田んぼを管理しています。このような地元の大学性や、ボランテアなど協力者を募っていかなければならないと思っています。
2004年に入り、八王子の山間地域、恩方地区で炭焼きをしていた友人から「花粉症の発症は奥多摩の杉の悲鳴だ。植えたきりほったらかしている。奥多摩の山を見に来い」と言われ、奥多摩の山を見に行きました。まさに、奥多摩の山は悲鳴をあげていました。
 1950年代、それまで主な燃料だった薪や炭が化石燃料にとって代わられ、それまで主流だった雑木(落葉樹)から、建築材としての活用を目的に、杉(常葉樹)が全国的に植えられました。
 成長した30年後、建築材として安い外国産材木が入り、国内の杉は放置され、山は荒れ、杉は花粉を飛散させたのでした。
 人工林として人間の都合で生態系を変えられた山は、その後間伐や枝打ちなども放置されたままになり、荒れ果ててしまったのです。
 私は八王子の山間地域、恩方地区で、 私たち都心に住む者は、「上流の山や川の恩恵を受けて生きている」ことに気づきました。そして、その恩恵を受けている新宿区民が、奥多摩の山の再生に取り組まなければならないと思いました。この思いは、新宿区内での緑化の推進活動にもつながりました。
食の安全・安心を求めて
「ふらっと新宿」を安全な食の拠点に 平成19年より
 「ふらっと新宿」というお店は新宿区が障害者や高齢者各方面の方々の協力を得て特産物や野菜などを販売するなど経験を積みし、自信をつけて民間企業などで働けるようにと始めました。平成19年7月に第1号が歌舞伎町に開店、11月には2号店が高田馬場に、20年7月にはスポーツセンター内に「ヴェジタブルカフェ」として3号店(右画像)。11月には、リサイクル自転車の販売を目玉に四谷店(下画像)、21年2月に地下鉄大江戸線、若松河田駅構内に「ベーカリーショップ」としてオープンしました。
 「ふらっと新宿」が各地方の自治体のアンテナショップとして大変期待されていると痛感します。特に中国製冷凍ギョーザによる中毒事件は、私たちが食の安全について考えるきっかけとなりました。日本の食糧自給率は(カロリーベース)39%と異常な低さです。仕入れ値の安さを求めてアフリカなどの遠隔地からの輸入で安全はもとよりCO2を大量に排出しています。他方で日本の農村はますます危機に陥っているのです。

 そんな観点から、「ふらっと新宿」を応援して、20年9月に区長に次のようなやり取りをしました。
問)ふらっと新宿」を拠点に安全な食と食糧自給率を高める事業を始めるべき。
地方の生産地と結び、安全で、新鮮な野菜、特産物などを販売する市場として位置づけ発展させよ。
区長)「フラット新宿を食の安全提供の拠点にというのは、時宜に適った提案。「フラット新宿」は障害者などの就労機会の創出を目的とした「コミュニテイショップ」だが、地方物産の販売を通じて新宿区と地方の交流を促進するパイプ役をはたしている。この絆を生かして産直野菜も提供できるようにしたい。
問)有機野菜の普及のために活動している消費者団体とも連携し市(いち)などのイベントをシネシテイ広場や大久保公園などで定期的に開催しては。
「歌舞伎町ルネッサンス」の推進にも役立つ。
区長)「ふらっと新宿」歌舞伎町店は「歌舞伎町ルネッサンス」の支援を受けるとともにイベントへの参加もしている。区民に安全な食材を提供できる市(いち)の開催を積極的に検討する。
問)地方の農家の協力を得て就農体験を実施しては。
生産者と消費者の交流が進み、安全な食材に対する意識の高まりや過疎地域の活性化がはかられる。更に仕事をしていない若者や第2の人生を歩もうとしているシニア世代に新たな可能性を見出すきっかけにもなる。
区長)ご指摘の通り。食の安全や就労支援、生きがいづくりなどの観点から就農体験事業を検討する。
食の安全と都市と農村の交流の発展のために大いに期待しています。
やきとり「結」の緑提灯運動
 焼き鳥のお店を始めて8年になります。
 7人が入ったら一杯になる小さなお店ですが、ここを拠点にして食の安全について訴えていきたいと思います。
 8年前、それほど深く考えていた訳ではありませんが、私なりにおいしい物を安く、安心して食べられる店にと考え国産の鶏肉を炭火で焼き、1本120円でお出ししていました。
しかし、グローバリゼーションの名のもとに進められる格差の拡大、農村の崩壊に疑問を持ち、中国の冷凍餃子事件をきっかけに食糧自給率を真剣に考えるようになりました。
そんな時「富茶論」を主宰する冨安正さんから、緑提灯についての新聞切り抜きを送って頂き、「これだ」と思い、1月に申し込みました。
 みどり提灯運動の発案者は、独立行政法人 農業・食品産業技術総合研究機構理事で中央農業総合研究センター所長の丸山清明さんです。
第一号は平成17年(2005年)4月小樽のお店だったそうです。当時は北海道産の食材を50パーセント以上扱うお店として始めたそうですが、これが平成18年暮、東京で第一号点が生まれるに至り、国産食材を50パーセント以上使用する店に発展したのだそうです。19年2月7日には100件だったのが、1月30日、中国冷凍餃子事件をきっかけに5月20日には1000店を超し、21年4月末で2000店を超える勢いです。
 私の店の「結」という名前は、私の小さい頃東北の農家には「結貸し」、「結借り」と言う言葉があり、田植えや稲刈りなど繁忙期にはお互いに助け会って農作業をしていました。今では使われることもなくなってしまいましたが、「結の心」としてもう一度よみがえらせたいという思いでつけました。
 緑提灯イコール結の心であると思っています。
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